掲示板

隣に座るのは誰か?

 日本社会は、静かに大きく形を変えているようです。

 先日、朝日新聞が「出生数が67万人を下回り過去最低を更新」と報じました。その一方で、年間150万人がこの世を去る「多死社会」が到来しています。これに年間15万人を超える外国人労働者などの社会増を差し引いても、日本の人口減少は、年間90万人以上のペースで減り続けています。

 「年間90万人の減少」と言われても、ぴんと来ません。でも、これを具体的な都市に置き換えてみると、その減少スピードの恐ろしさを感じます。今年は北九州市(92万人)が丸ごと消え、来年は千葉市(98万人)、再来年は仙台市(110万人)の全市民がいなくなる。そんな規模の喪失が、毎年繰り返されるのです。同時に、毎年武蔵野市(15万人)ほどの規模で、住民がすべて外国人に置き換わっている計算になります。

 街を歩けば、その変化は数字以上に肌で感じます。いま、日本に滞在する旅行者は、一日当たり平均80万人。これは、山形県や佐賀県の県民数と同じ規模です。さらに、私たちの食卓を支える農業、レジャーを支えるホテルや飲食サービス、日々の暮らしに欠かせないコンビニやスーパー、そして福祉の現場は、いまや彼らの存在なくしては立ち行かなくなっています。

 北海道の占冠村(しむかっぷむら)では住民の3人に1人が、東京の新宿区では7人に1人が外国人です。日本全体で暮らす外国人の数は約395万人で、これは横浜市より多く、あのアメリカ第2の都市、ロサンゼルス市(388万人)さえもしのいでいるのです。

 教育現場を見ると、都心部の小学校ではクラスの1人は、外国にルーツを持つ子どもになっており、増加傾向にあります。かつては、肌の色の違うクラスメートは「特別な風景」でしたが、いまでは「当たり前の日常」になりつつあります。ともに学び、遊び、育つ彼らが、大人になるころ、日本の社会の人権観や世界観は、きっと今とはまったく違う豊かなものへとアップデートされているはずです。

 しかし、そうした「混ざりあう豊かさ」のなかに、まだ大きな空白があります。それは、障害を持つ子どもたちが「特別支援」という名のもとに、実質的な別学に置かれている現実です。

 もし、すべての子どもたちが等しく同じ教室で学んでいれば、クラスに3人ほどの割合で、障害を持つ友だちが隣の席に座っているはずです。国籍の違いを受け入れるのと同じように、特性の違いもまた、コミュニティの当たり前のグラデーションとして受け入れる。そんな学び舎が実現すれば、彼らの社会性は高まり、彼らとともに育つ子どもにとっても、複雑さが増す未来社会を生き抜く大切な力を育む機会になるはずです。

「隣の席に座るのは誰か?」

 人口構成の激しい変化の時代を迎えた私たちが、その隣の席に座るのは誰なのかと、問い続けること。それが、未来につながる責任ではないでしょうか。